日本脳炎ワクチンの歴史と, マウス脳由来ワクチンから組織培養ワクチンへの変更について
(IASR Vol. 38 p.164-165: 2017年8月号)
日本脳炎ワクチンの歴史は, 1954年の生物学的製剤基準公布まで遡る。翌1955年よりワクチンの製造・販売が開始された。製造株は日本国内で分離された中山株が選定された。当初の製造過程は, 1)中山株を脳内接種したマウスの脳を乳剤化する, 2)脳乳剤を遠心処理により沈渣と上澄みに分離する, 3)上澄みにホルマリンを添加しウイルスを不活化する, 4)不活化液を緩衝液で希釈後, 充填するというものであり, 精製過程はほとんど無いに等しかった。その後, 硫酸プロタミンや活性炭末等による粗精製工程が組みこまれるようになり, 徐々に精製度が増していった。それに伴い製剤基準もより厳しい条件へと変更が繰り返された。さらにアルコール沈殿法や超遠心法, カラムクロマトグラフィー法などの高度な精製法が開発され, より精製度の高いワクチンへと改良された。開発当初から使用されてきた中山株であったが, 1980年代になると, その抗原性が野外分離株との間で乖離があること, さらに北京株の方がより多くの分離株に対し高い中和能を付与することが明らかとなった1,2)。1988年にはワクチン製造株として, 中山株以外も選定可能となり, 日本国内では製造株が北京株に変更された。
製造初期より, ウイルス増殖基材であるマウス脳の成分によるアレルギー反応が危惧され, 精製工程の改良が進められてきた。それでもマウス脳を使用する以上, 完全に除去することは困難である。さらに動物愛護の観点からもマウス個体を使用しないワクチン製造法が望まれた。一方で1980年代には, フランスで培養細胞を用いた不活化ポリオワクチンおよび狂犬病ワクチンの製造が始まった。ウイルス増殖用に選ばれた培養細胞であるVero細胞は, 元来1962年に千葉大学医学部の安村美博先生がアフリカミドリザル腎より樹立した細胞であり, 世界保健機関(WHO)もワクチン製造用細胞として認めている3)。培養細胞は増殖・維持・管理も比較的容易であり, 製品の安定的供給の面からも利点が大きい。このような背景から, 1990年代から培養細胞を用いた新型ワクチン製造のための研究開発が進められた。しかしまだ開発途上であった2004年夏に, マウス脳由来日本脳炎ワクチンを接種した中学生がその後重篤な急性散在性脳脊髄炎(ADEM)を発症し, その後予防接種健康被害認定部会・認定分科会において日本脳炎ワクチンとADEM発症の因果関係が否定できないと認定された。この認定を踏まえ厚生労働省は, 2005年5月30日に日本脳炎ワクチン接種の積極的な勧奨を差し控えるよう各自治体へ通知した。この発表により, 各自治体や病院ではワクチン接種に対し非常に慎重な対応を選択することとなり, 結果的にワクチン接種者の激減を招いた。これは事実上の接種中止状態に近く, その後数年間, 小児における日本脳炎抗体保有率は非常に低い水準に落ち込んだ。それまで80%以上であった4~5歳児の抗体保有率が2008年には20%以下にまで落ちこんだ。さらに供給側も, 需要のないマウス脳由来ワクチンの製造を打ち切る事態となった。この件により, より安全性が高いとされる新型ワクチンによる予防接種の早期実現が喫緊の課題となった。
積極的勧奨差し控えから3年半以上経過した2009年2月, 一般財団法人阪大微生物病研究会(阪大微研)が開発した細胞培養不活化日本脳炎ワクチン「ジェービックV」が承認され, 同年6月より販売が開始された。また2011年には一般財団法人化学及血清療法研究所(化血研)も同様の細胞培養ワクチン「エンセバック」の製造販売承認を取得した。勧奨差し控え前までは, 国内の日本脳炎ワクチンを製造しているのは阪大微研と化血研の他に3社の5社であったが, 現在では上記の2社のみとなっている。2010年より, 低年齢層(第1期)から順次ワクチン接種の勧奨接種が再開された。さらに勧奨差し控え期間中にワクチン接種を控えていた人が, 接種対象期間を過ぎていても予防接種が受けられるよう救済措置がとられた。現在では20歳未満の抗体保有率は2005年以前と同様の高い水準にまで完全に回復している。ワクチン製造所が発表した論文によると, 培養細胞由来日本脳炎ワクチンは, マウス脳由来日本脳炎ワクチンに比べ, ヒトに対し少ない抗原量で高い抗体価を誘導する4)。旧型ワクチンが溶解済みであったのに対し, 新型では長期保存可能な凍結乾燥品となっている。
マウス脳由来成分が混入する余地のない細胞培養ワクチンではあるが, ADEMのような副反応が全く起こらないとは言い切れない。末期に製造されたマウス脳由来日本脳炎ワクチンにおいても, ADEMの原因物質候補とされるミエリン塩基性蛋白質の量は検出限界以下であった。ADEMの原因物質を特定することは非常に困難であり, さらにそのような物質が細胞培養ワクチンに存在するかしないかはわからない。細胞培養由来であるからということで安全性を過信することは避けたい。因果関係は不明であるが, 新型ワクチンに変更後も接種後にADEMを発症した例が報告されている。新型ワクチン接種後の死亡例として2例報告されている。これらの事例について, 厚生労働省の予防接種部会で議論されたが, 2例ともワクチンと死亡との因果関係は認められず, 原因不明または他の要因により死亡した可能性が高いと結論づけられた。
新型ワクチンが承認されてすでに8年が経過した。勧奨接種差し控えに伴う, ワクチン接種の「空白」期間の影響も, 日本脳炎ウイルスに対するヒトの中和抗体保有状況(感受性)調査により今では完全に消失したことが示されている。また2016年4月からは北海道でも日本脳炎ワクチンの定期接種が開始された。日本脳炎はワクチンで確実に予防できる感染症であることから, 今後もワクチンの供給・接種体制をしっかりと維持していくことが大切である。
参考文献
- 大谷 明, 改良日本脳炎ワクチン使用の手引き, 改良日本脳炎ワクチン研究会, 1988
- Kitano T, Immunogenicity and field trial of Beijing -1 vaccine. WHO working group on Japanese encephalitis vaccine. Osaka, 1987
- WHO, WHO Requirements for continuous cell lines used for biological’s production, WHO Technical Report Series no. 745, 1987
http://whqlibdoc.who.int/trs/WHO_TRS_745.pdf - Kikukawa A, et al., Vaccine 30: 2329-2335, 2012