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国内HIV感染者の宿主・ウイルスゲノムのデータベースとその二次利用の課題

(IASR Vol. 41 p183-185: 2020年10月号)

はじめに

国内の新規HIV感染者等の年間報告数は, 近年1,500件前後から減少していない。生涯にわたり抗ウイルス剤療法を続けている長期療養感染者においては, 薬剤耐性や副作用の他, 慢性炎症による疾患・神経認知障害・発癌リスク等の非エイズ疾患の促進等が問題視されている。新規感染者の下げ止まりによって, この問題は拡大している。HIVの病態進行には, HLAをはじめとした宿主ゲノム因子が強く影響している。HIVゲノムも, 宿主因子の選択圧からの逃避によってゲノム多様化を獲得している。ウイルス・宿主ゲノムの多様性の把握は, HIV感染症克服に向けた基礎研究の土台となるとともに, 伝播性薬剤耐性変異の流行把握や伝播クラスタの同定を通じて, HIVの予防対策にも寄与する。HIV感染症例の臨床ゲノム情報をデータベース(DB)化して広く利用できれば, HIVと宿主ゲノムの多様性・関連性のより深い理解が可能となり, こうした研究の加速が期待できる。一方, HIV感染症の当事者に対する根強い差別と偏見により, DBでのゲノム情報の収集・公開・二次利用は倫理的・法的・社会的な観点において課題がある。本稿は, わが国におけるHIV感染者の臨床ゲノム情報の二次利用体制の整備を目的として体制整備が進められている国内HIV感染者の臨床ゲノムDBの研究を紹介するとともに, HIV関連ゲノムデータの公開・二次利用の課題について解説する。

AMED臨床ゲノムプロジェクトとHIV臨床ゲノムデータベースの開発研究

過去のヒトゲノム解析で得られたビッグデータを使って「ゲノム医療」を行おうという取り組みは, 臨床分野で盛んに進められている。2017(平成29)年5月には「医療分野の研究開発に資するための匿名加工医療情報に関する法律」も施行された。このために, 日本医療研究開発機構(AMED)は「臨床ゲノム情報統合データベース整備事業」を興し, 疾患分野におけるゲノム解析・臨床ゲノムデータストレージ(DS)開発・情報共有のための情報システム(非制限公開DB “MGeND”および制限公開・共有DB“AGD”)の整備を行ってきた(図1)。HIV感染症分野では, 同事業の「HIV感染症に関する臨床ゲノム情報データストレージの構築に関する研究(臨床ゲノムDS班)」が, 2017年より感染者のゲノム情報収集の基盤体制を整備し, HIV感染者のHLA型をはじめとする宿主側の臨床ゲノム情報の収集・解析を行ってきた(図2)。一方, 感染者の臨床情報とHIVウイルスゲノム情報は, AMEDエイズ対策実用化研究事業「国内流行HIV及びその耐性変異株の長期的動向把握に関する研究(HIV薬剤耐性班)」等において長年収集されており, 国内感染者の約4割の患者情報と遺伝子配列情報がデータ化されている。これらのゲノムデータの公開に向けた課題を検討するため, 2019年よりAMED「HIVゲノム・宿主ゲノム等のデータベース構築・公開に向けた体制整備のための研究(HIVゲノムDB班)」が行われている。

HIV臨床ゲノムデータストレージシステム

臨床ゲノムDS班は, HIV感染者のDSとしてGenome Database of People Living in Japan with AIDS/HIV“GenPLJAH”を開発し, HIV薬剤耐性班の持つ症例データのうち機微でない部分を共有したうえで, 研究班等で解析された宿主ゲノム情報を付けて保管している。GenPLJAHはまた, 臨床ゲノム共有システムMGeND, AGDにデータを送信するパイプライン機能も担っている(図2)。HIVゲノムDB班では, 倫理面を重視し, 2019年度からGenPLJAHのデータ構造の見直しを進めている。DSの基盤となる症例には, 患者同意の関係で二次利用できないものが多いが(後述), DSの共有可能なデータのみにフラグが付けられ, MGeND, AGDに渡せるデータをシステムが自動判定できるように改修された。こうした臨床ゲノムデータの管理には, 医療機関・研究者・HIV感染当事者間での情報共有や議論の積み重ねが欠かせないため, コラボレーションシステムを構築して関係者との議論を続けている。

HIVの臨床ゲノムの二次利用の抱える課題

GenPLJAHはMGeND, AGDを通じた情報共有のパイプラインでもあるが, 保有する症例は様々な時期に行われた研究事業で採取されており, 患者への同意事項も様々である。このため, 現在は臨床ゲノムDS班で既に患者合意がある1,192名以外の情報共有はできない。HIVゲノムDB班は, 症例情報を提供してきた163施設に対して過去の同意書取得状況に関する調査を行った。その結果, 担当医の異動・施設の閉鎖等の理由で2,948症例が同意書の内容確認も再同意も困難な状況にあることが分かった。残りの7,946件(98施設)も, 66%は「臨床研究に関する倫理指針」が定められた2003年近辺に集中して登録されており, 患者同意に不確実な事項があるため, 薬剤耐性班によるopt-out等での患者との再合意が必要である。

倫理的課題に関する議論を関係医療機関や当事者の間で進めた結果, 公開には別の課題があることが分かってきた。HIVと共に生きている, あるいは関連のある人は, 「スティグマ」と呼ばれる低評価プロセスに晒されており, これが彼らに対する差別や偏見を生じさせている。スティグマは, 陽性者が感染を他者に知られることへの恐れに繋がる。たとえば, ゲノム診断が身近に施行されるようになった将来, HIV感染者の臨床ゲノム情報が匿名で公開されていると, ゲノム診断で判明したゲノム配列と照合することで診断された人が感染者であることが分かってしまうかもしれない。また, HIV遺伝子が個人・グループが特定できる形で公開されると, 伝播クラスタの解析がMSM(mem who have sex with men)コミュニティへの差別につながる懸念がある。実際, 米国ではHIV配列の公共データベースの公開は既に禁止されており, その他の国でも無作為に選んだ少数配列を登録するなど, 制限が課されつつある。わが国でも, 個人識別符号となる規模のヒトゲノム情報や付帯情報付きのHIV遺伝子配列情報を感染者の同意なしに二次利用することは困難であろう。非制限公開システムMGeNDは集計データのみを公開するため危険性は低いが, AGDは難しい。一方で, ゲノム医療の発展や伝播クラスタの予防対策への活用など, ゲノム情報をDB化することの意義は大きい。HIV臨床ゲノム情報の活用には, 本来の保有者である当事者の意思を反映させるための継続的な対話が欠かせない。今後, 前述のコラボレーションシステム等も活用して当事者との十分な話し合いを行い, 「HIV臨床データ活用のための倫理指針(案)」を策定していく。

 
 
国立感染症研究所    
品質保証・管理部第三室長
 椎野禎一郎

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