国立感染症研究所

 

 生物を構成する物質・分子を知り、さらに、それらのもつ機能を知ることで、私たちは生命現象を分子レベルから体系立てて理解できるようになってきました。そして、疾病の発症機構を生体の物質や機能の異常と結びつけて考えることにより、医学や薬学といった人々の健康に関わりの深い分野は大きく発展してきました。

「低分子代謝物、タンパク質や遺伝子といった生体分子の異常」と「疾病の発症」とのあいだに因果関係があるとなれば、生体分子の異常を軽減することで疾患症状も軽減できるような治療法を合理的に開発したり、疾患にかかりやすい傾向にある人の発症を未然に防ぐ・遅らせるといった予防的措置の仕方を見つけたりすることがより容易になるでしょう。

生命科学life scienceの基盤的な研究の成果がすぐに臨床応用に結びつくというものではありません。それでも、疾病の発症の分子メカニズムが解明されていくということは、人間社会への貢献が大きいと思います。何もわからない時に比べて、患者本人や治療者はもとより周囲の人々の誤解にもとづく不適切な対応を減らし、疾病の理解がやがて治療につながるであろうと未来に希望を抱かせる精神衛生上の意義さえもあるのですから。

生化学biochemistryとよばれる学問分野は、歴史の長い生物学biologyや医学medicine (or medical science)と化学chemistryという異なる学術領域をミックスさせた学際的な出自をもつ、比較的あたらしい分野です。ちなみに、生化学分野おいて歴史的も内容的にも最も有名な学術雑誌The Journal of Biological Chemistryの創刊は1905年です。

生化学では、生体のもつ分子(生体分子)の化学構造を決定し、生体中で起こっている化学反応(生化学反応)をひとつひとつあきらかにしてゆくことを勃興当時の中心テーマとしていました。やがて、生化学反応をつかさどる酵素enzymeの本体がタンパク質であることがわかってくると、タンパク質を分離・解析して、タンパク質の機能をあきらかにすることも大きなテーマとなってきました。そして、タンパク質の設計図は遺伝子が担うことも知られるようになり、生化学反応と遺伝子との関連をみいだしてしていくことも生化学が取り組む重要な課題となってきています。また、単離した分子から生命現象を再現する実験系を創出し、その実験系をつうじて複雑な生命現象の仕組みの詳細をあきらかにしていくということも生化学分野における挑戦的な試みです(生命を再現させる試みではありません。あくまで、調べたい生命現象の一部分のみを再現する試みであり、生化学者はこのような実験を再構成reconstitutionとよんだりします)。

生体から取り出した分子を調べてみると、それらは物理法則や化学法則にちゃんと則った挙動をしめすことがわかりました。つまり、生体を構成している分子は、超自然的な神秘をわざわざ考える必要のない「もの」であることが明確になりました。このような知識が人類に与えた影響は大きいと思います。分離した分子を寄せ集めただけで生物を再び作り出すことはできないにせよ、疾病の原因が物質の異常であると理解できれば、「悪霊がとりついている」というような愚かしい理由を病に対して考えることもなくなるはずです。いろいろなことに広く適用できる科学的な知見は、ものごとを合理的に考えるときにとても大切な基礎なのです。

細胞化学部(英名:Department of Biochemistry and Cell Biology)では、生化学のほかに細胞生物学cell biologyの手法や知見も多くもちいていますし、遺伝学geneticsの分野の手法や知見も積極的に取り入れています。

生物の基本ユニットは細胞cellです。よって、生物を知るうえで細胞を詳しく知ることは必要不可欠です。細胞生物学は、生命現象を細胞レベルで解析する学問分野であり、細胞の形態の成り立ちや細胞のもつ機能などを、なるべく生きている細胞を観察しながら知ろうとします。解析対象のタンパク質を蛍光タンパク質fluorescent proteinにつなげて細胞に発現させ、そのタンパク質の挙動を生きた細胞内でリアルタイムに蛍光顕微鏡をもちいて観察できるようになったことは細胞生物学をおおきく進展させました。最近では、蛍光顕微鏡をもちいて一分子のタンパク質の挙動を追跡する技術さえ開発されています。多数の分子の総和平均の観察から解釈されていた生体分子の性質も、一分子ごとに観察してみると、違った様相が表れてくることがあり、これら新しい知見によって細胞の成り立ちをより深く理解できるようになってきています。

しかし、生きている細胞だけを用いて解析するだけでは、なかなか分子メカニズムの解明をめざすには限界がありますので、細胞の形態などはなるべく保ちながらも生物としては死んでいる細胞を解析することもよくあります。そして、細胞レベルの観察でわかってきた細胞内のパーツ(部品)の機能を、細胞を破砕してパーツを取り出して解析する生化学的な手法をも取り入れて確認することも、現代の細胞生物学では、当然のように行われています。また、その逆もあります。すなわち、生化学的に分離した個々のパーツがみせた働きが本当に生体内での働きを反映しているのかを検証する場合、細胞生物学的な手法によって観察される当該パーツの細胞内での挙動とのあいだに説明のつかない不一致がないことを確認したりします。

 

細胞内の構造をナノメータ(nano meterは、一般の定規の最小目盛であるmmの百万分の1)レベルまたはそれ以下の分解能で観察しようと思えば、光学顕微鏡optical microscope(蛍光顕微鏡fluorescence microscopeも光学顕微鏡のひとつ)ではほぼ無理であり、電子顕微鏡electron microscopeをもちいる必要があります。しかし、生きたままの細胞を電子顕微鏡で観察することは技術的にまだ不可能です。ところで、光学顕微鏡や電子顕微鏡は光や電子線といった波の干渉interferenceや回折diffractionを利用して像をみておりますが、これら従来から生命科学の分野でよく使われてきた顕微鏡とは全くことなる原理をもちいて高分解能観察をする顕微鏡、例えば原子間力顕微鏡atomic force microscope (AFM)、も最近は細胞生物学に導入されつつあります。顕微鏡の原理や最新技術を説明することは私の能力の及ぶところではありませんが、とにかく、微細な構造を観察する手法も日進月歩の勢いで発展しており、そのような手法は細胞の形成機構や細胞のもつ機能を知ることにも大きく寄与しています。なお、高分解能の電子顕微鏡や原子間力顕微鏡などは、たいへん高価な機器ですし、操作も熟練を要することから、専門家のいる研究室で維持管理する必要があると思われます(私たちの研究部には、これら高額機器はありません)。

 

生命現象を遺伝子geneとむすびつけて考えていく遺伝学は、生命科学のもろもろの研究分野にきわめて大きな影響を与えてきました。19世紀に生きたグレゴール・メンデルGregor Mendel, 1822-1884年によって提示された遺伝法則laws of inheritanceにはじまり、20世紀の「遺伝子の本体はDNAであり、DNA上の核酸配列をもとにタンパク質のアミノ酸配列が決定されている」ということが明らかされる疾風怒涛の時代を経て、2000年から2003年にはヒト全ゲノム配列のドラフト版や完全版が公開されて、現在のゲノム科学genome scienceの興隆にいたっています。これらの流れで培われてきた遺伝子やゲノムに関する知見を無視した生命科学はもはやありえません。チャールズ・ダーウィンCharles Darwin, 1809-1882年によって提唱された進化論evolution theoryが正しいことも、遺伝学・ゲノム科学の成果によって疑いようもなく裏付けられたといってよいと思います。もちろん、進化論のアイデアが遺伝学・ゲノム科学の発展に与えた恩恵も大きく、遺伝学・ゲノム科学と進化論は互恵関係の典型といえましょう。

私たちの研究部では、哺乳動物細胞における脂質代謝lipid metabolismを大きな研究テーマとしています。実験材料としては、動物個体ではなく、無限増殖能を獲得した培養細胞culture cellをおもに使い、上で述べたような生化学的手法や細胞生物学的手法をもちいて日常の実験をおこなっています。哺乳動物における脂質代謝の生化学的研究は世界中でおこなわれていますが、当研究部の特徴は、おそらく遺伝学的手法を取り入れているというところにあります。この方向性は、先々代部長の赤松先生、先代部長の西島先生の時代から続いており、私自身もこの方向性に賛同するものでありますが、哺乳動物培養細胞の脂質代謝を生化学と遺伝学とを駆使しながら解析している研究室は世界をみわたしても珍しいと思われます。

 

ここで私がいう「哺乳動物培養細胞における遺伝学的な手法」とは、研究の対象となる形質character(生物の形状や性質の特徴)に変化のあるような突然変異細胞株mutant cell lineを分離し、この変異株を解析材料として利用する実験手法です。古典的な遺伝学では交配matingしてできた子孫を解析することで形質の遺伝のしかたを知りますが、動物培養細胞では(性細胞sex cell以外での)交配ができません。よって、動物培養細胞から変異株を分離して解析するような分野を特別に体細胞遺伝学somatic cell geneticsとよんだりします。動物個体において、半数体haploidである精子・卵子を性細胞(もしくは生殖細胞germ cell)とよぶのにたいして、そのほかの全ての細胞のことを体の細胞、すなわち体細胞somatic cellとよびます。実験で汎用されている培養細胞のほとんどすべては体細胞に由来していますので、体細胞遺伝学とよばれるわけです。

体細胞では、自然な交配はできませんが、ポリエンチレングリコールpolyethyleneglycol処理によって二個の細胞を人工的に融合することは(細胞の種類にもよりますが)可能です。この細胞融合法を用いて、変異細胞と親細胞parental cellを一個の融合細胞fusion cellにして解析すると、もとの変異細胞のもつ遺伝子変異が親細胞の遺伝子に対して「潜性(劣性)recessive」なのか「顕性(優性)dominant」なのかを知ることができます。融合細胞のしめす形質が、親株に相当するときは「潜性変異」ですし、変異株に相当するときは「顕性変異」と考えられます。

(なお、上述したdominant/recessiveという遺伝学的用語は長らく優性/劣性を邦訳されておりましたが、日本遺伝学会による見直しにより、2017年からは顕性/潜性という邦訳へと改訂されました。本稿もそれに倣い用語を改訂しました[2017.9.20])

また、最近は、RNA干渉interferenceの原理や部位特異的なDNA切断酵素endonucleaseを利用して、特定の遺伝子の発現を減弱させたり、ゲノム上の遺伝子配列を欠失させたりすることが可能になってきています。これらの技術によって、解析対象の遺伝子の欠損が細胞の形質に与える影響を、ある程度「予定が立てられる」実験計画に従って調べることもできるようになりました。

しかしながら、今も昔も変わらぬ高い壁が、二倍体diploidまたはそれ以上の核型をもつ培養細胞の遺伝学には存在します。それは、「広範囲の遺伝子にランダムな変異を起こさせても興味ある形質変化を潜性変異としてもつような変異細胞株を得ることが困難である」ということです。(相同染色体homologous chromosomeがなく、特定の遺伝子は細胞あたりひとつしか存在しない)半数体の細胞を用いた場合に特定の遺伝子における潜性の突然変異出現頻度が100万細胞あたりにひとつとすると、(相同染色体をもつので各遺伝子がふたつずつある)二倍体細胞で相当する潜性変異の形質が現れる頻度は100X100万(1012乗!)あたりにひとつと試算され、実験的に変異株を分離することは不可能というような低い確率になってしまうのです。

私たちは、ほぼ二倍体でありながらも潜性変異株の分離例が多いCHO細胞を親株にもちいることで、複数の重要な脂質代謝変異株を得ることに成功し、これらを独自の実験材料として有効に利用してきました。生化学と遺伝学を組み合わせた研究手法(それを遺伝生化学的アプローチと私たちはよんでいます)こそが、当研究部の独自性originalityを培ってきたことは間違いありません。そのいくつかの実例は、別項で詳しく述べます。

 

上で少し述べましたように高性能DNAシ-ケンサの普及や新しいゲノム編集技術の登場により、哺乳動物培養細胞に対する遺伝学的な解析の幅は急速に充実されつつあります。このような変化を受けて、感染症対策に資する宿主細胞側からの重要な情報や実験材料を提供する研究にも取り組んでいます。そのような方向性の研究を展開する準備の一つとして、微生物学研究だけでなくワクチン生産においても広く使われているアフリカミドリザル腎臓由来Vero細胞の全ゲノム配列を他機関との共同研究により、世界に先駆けて決定しました。この話題も、別項で詳しく述べています。

「広範囲の遺伝子にランダムな変異を起こさせても興味ある形質変化を潜性変異としてもつような変異細胞株を得ることが困難である」と上述しましたが、実はこの問題もゲノム編集技術genome-editing technologyの急速な発展によって部分的には解決されつつあります。ゲノム上の遺伝子を網羅したような編集ツール(例えばレンチウイルスベクター上に構築されたゲノムワイドのCRISPR/Cas9ガイドRNAライブラリ)がヒトやマウスといった生物種に対しては開発されています。そして、このような新ツールを用いて「広範囲の遺伝子にランダムな変異を起こさせた」時には、特定の遺伝子に複数の対立遺伝子allelesがあってもそれら全てのallelesを欠失させて潜性変異の表現型を持った細胞株が得られることがあります(それも、一つの変異細胞株を得るのに多大な労力を払った過去を持つ私にはまさに驚愕すべき高い頻度で!)私たちは、HeLa細胞を含めたいろいろなヒト培養細胞でこの新ツールを用いて感染症研究に資する変異細胞パネルやライブラリの作製に取り組んでいます。

 

学問領域というものはもともと曖昧でありますし、字面上は異なる学問分野といえども多分にお互い関連し合っています。生命科学は、あらたに生まれてきた学術分野領域を含めてさまざまな分野の手法や知見を統合させながら協力し、猛烈な勢いで進展しております。とはいえ、ひとりの研究者やひとつの研究部が対応できる守備範囲は限られています。当研究部では、生化学、細胞生物学それに体細胞遺伝学と一般によばれる分野での手法や知見を主たる基盤とし、足りない部分は部外の他の領域の専門家と協働しながら、日々の研究を進めています。

 

感染研 細胞化学部 花田賢太郎

2013219日)

2015619日、一部追加)

2015721日、一部追加とともに重複部分削除)

 

細胞化学部長から

花田の研究テーマなど

I. 私の志向する生化学、細胞生物学,そして体細胞遺伝学(このページ)

II. スフィンゴ脂質について

III. 哺乳動物細胞におけるセラミド輸送に関する研究

VI. 動物培養細胞に関する用語など

V. Vero細胞の物語 ~その樹立からゲノム構造の決定、そして未来へ~

花田研究業績

その他の記事

1.生命、細胞、生体膜

2.リン脂質、スフィンゴ脂質およびセラミドの命名事始め

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