生命、細胞、生体膜
Living organization is maintained by extracting ‘order’ from the environment --- 1944, Erwin Schrödinger (1887-1961)
生き物は環境から「秩序」を引き抜いていることで維持されている --- 1944年 アーウィン・シュレディンガー(1887年-1961年)
生命の本質は何であろうか?
「生命とは何か?」、「生きているということはどういうことか?」という問いは多くの人にとっては自明なことであり、「くどくど考えなくても見てればわかるだろう。」と思われるかもしれません。しかし、答えを考え出すとなかなか言葉では言い尽くせない問いであり、少々固い言葉でいうところの「生命を定義する」ことは実に困難なのです。時代の変遷により考え方が少しずつ変わるというように流動的でさえあります。
最近の社会的問題としては「脳死は死か?言い換えれば、脳死状態の人は人間として生きていると判断できるのか否か?」という難しい問題が提起されたことは皆さんご存知でしょう。
私のこの小文の目的は、生命の最小単位である細胞は生きるためにそれを包んでいる生体膜と呼ばれる構造を持つことが必須であり、生体膜には構成成分として脂質と呼ばれる生体物質が存在していることがとても重要であるということを説明することにあります。その目的に行きつくまでに、回りくどいようですが「生命とは何か?」ということを考えるところから始めます。
生き物とはどういうものかを考えると、「子孫が作れるもの」、「炭素、水素、窒素を主な材料として形成されているもの」、「核酸を持ち、他の生命体に寄生せずに自己複製能を有するもの」などいろいろな解答案が挙げられましょうが、我々が知っている生物にかなり共通している性質を示してはおりますものの、これらの属性によって生命を過不足なく定義できるとは思えません。ラバは、雄のロバと雌のウマの交雑種であり、不妊のためラバ同士で子孫は作れませんが、誰が見てもラバは生き物です。
とすると、生命の本質もしくは生き物らしさというものは子孫維持能力とは別なところにありそうです。このことは、20世紀初頭には物理学者たちから指摘され、生命体を動的秩序(dynamic order)とか非平衡の熱力学(non-equilibrium thermodynamics)もしくは散逸構造(dissipative structure)といった概念から考える機運が生まれてきました。これらの概念の詳細な説明は私の能力を超えておりますので、ほんのさわりの説明を以下に試みます。
私たちは、生き物のどのような性質を見たときに「これは生きている!」と感じるのかを考えてみてください。上に述べましたように「子孫維持能力」は生物が自然界に生き残るために必要な能力ではありますが、生き物であるための必須要件ではありません。
私たちは、自然環境に応じて変化したり動いたりする(硬度として)ソフトな質感を与える物体を見ると、一見してそれは生物ではないかと認識する傾向を持っていると思います。このような認識傾向があること自身、生物として持たねばならないなにかしらの基準があることを示しています。私たちは知らず知らずのうちにその判断基準を身に着けているのです。私が考えるに、その基準の第一条は、「動的秩序を自発的に持つシステム」ということになると思われます。
自発的に動的秩序を持つシステム
「動的秩序を自発的に持つシステム(Autonomous system with dynamic order)」と言われても多くの人には意味不明のことと思います。そこで先ず言葉の定義をしておきましょう。
動的(dynamic): 状態や構成が状況に応じて変化する性質。対立概念は静的(static)。
秩序(order): 物事がお互いのルールに従い配置または挙動していること。対立概念は無秩序または乱雑(disorder)。
自発的(autonomous): 自分自身の判断で行為する性質。自律的と言い換えてもよい。
システム(system): 相互に関連する、または相互に作用する要素の集まり。
システムという言葉は、さまざまなことで多用されますので、さらに説明を加えておきます。自然界全体の一部分であり、その構成要素がお互いに関連、作用しあっているのがシステムです。箱にいくら高価なITチップを放り込んでもシステムにはなりません。適切な配線を通じてそれぞれの要素が作用して全体としての機能を発揮することになって初めてこの箱状の物体はコンピュータと呼ばれるに相応しいシステムになります。
社会においては各人間、人間においては各臓器、臓器においては各細胞、細胞においてはDNAやタンパク質といった生体分子が、それぞれのシステムの主要素です。要素が単に集まっているだけでなく、それらが相互に関連して作用することが、社会、人間、臓器、細胞といったシステムを作ることに必須であることがお分かり頂けるでしょう。
本稿では以降、システムとは上記のようなものとして思い描いてください。そうすると、「動的秩序を自発的に持つシステム」とは、「構成要素がお互いのルールに従い配置または挙動しつつ、状況に応じて状態や構成要素が自身の判断による行為で変化するシステム」ということになります。
システムという概念は「系」と邦訳されます。Solar systemなら太陽系、Biological systemであれば生物系ということになります。ただし、「系」という日本語は生物系学科とか草食系男子というようにシステムという意味ではなく系統(lineage)という意味で出てくることもあるので区別が必要です。
秩序と無秩序
秩序と無秩序および動的と静的についても少し話を加えます。秩序とは、物事がお互いのルールに従い配置または挙動していることと先述しました。この定義は社会の秩序や細胞の秩序というような目視または光学顕微鏡で見えるようなサイズのものについてはしっくりと当てはまりましょうが、分子のようにさらに微細なものになると対立概念である無秩序から把握したほうがわかりやすいかもしれません。以下、本稿では乱雑という言葉を無秩序と同義として使用します。
システムを構成する要素が規則性なく分布し動いている状態が乱雑な状態です(下に描いた部屋の状況を見てください)。微視的に見たときに分子の取りうる状態の数が大きいほどより乱雑であるとみなされます。「分子の取りうる状態の数」という事柄は、水と油が分離することにも密接に関わることであり、機会があれば別途触れたいのですが、なかなか簡潔に説明できそうもありません。そこで、ここでは部屋の中が乱雑でよいなら物のおけるパターンは多くあるという日常の経験と結びつけてイメージしてください(部屋の状況図参照)。熱力学用語としてはエントロピーと呼ばれる言葉が乱雑さを表す指標となっており、乱雑さがひどくなることをシステムのエントロピーが大きくなるというように表現します。
分子の集団は乱雑さがひどくなる方向(エントロピーが大きくなる方向)へとは自然と進みますが、その逆方向(つまり秩序ある方向)に向かわせるのは相応するエネルギーを使う必要があります。
生き物は動的秩序を自発的に作り出します。すなわち、構成要素がお互いのルールに従い配置または挙動しつつ、状況に応じて状態や構成要素が生き物自身の中にプログラム化されている判断基準に沿って変化しているということです。生物は、主に物質代謝から得た化学エネルギーを利用して低分子から高分子を作り、状況に対応した新たな体制を整えることを常に行っています。そして、死ねばこのような行為を自発的に行うことはなくなります。
全ての生物が持つ「動的秩序の自発性」の観点から脳死の判断を解釈すると、さまざまな臓器の動的秩序は最新の医療機器の助けを借りて維持できようとも、維持するための自発性が不可逆的に喪失している場合は生物としての死と考えうるのかもしれません。
動的秩序を自発的に形成維持する生物
動的秩序システムとは、構成要素がお互いのルールに従い配置または挙動しつつ、状況に応じて状態や構成要素が変化するシステムと説明しました。生物における構成要素は、主に炭素、窒素、酸素、水素、リンから成り立っており、金属などに比べれば柔らかい物性を示します。このあたりの基準を満たすシステムであるといかにも生物らしい感じがしてきます。その上で自己複製能(細胞分裂や産卵・出産)さえも見られればほぼ生物と認定されそうですね。
実は、動的な秩序を持つシステムは生物に限ったことではありません。あとで少しふれますように地球も動的な秩序を持つシステムです。工学的なシステム、例えば自動車やコンピュータなども動的な秩序を持つシステムといえましょう。ただし、人工的な産物の多くは、その構成要素が状況によって自発的に変化するということは通常ありません。修理や新機種開発というように人間の力を借りて構成要素を変えることはありますが。
生物は構成要素を生物自身の活動によって変化させています。身近な例では、生まれたばかりの赤ちゃんと、その子が成人になったときとでは、同じ個人でありながら各臓器の大きさは育つ間にものすごく変化しますよね。それだけではありません。微視的にみれば、生まれたその瞬間に体を形成している個々の原子で老年期までそのまま残っている原子はほとんど存在しないのです。新陳代謝で置き換わっているからです(このことは、モデル生物を同位体原子で代謝標識することにより実験的に検証可能です)。細胞を構成する分子のレベルにおいて、私たちの身体は、無意識のうちに自発的に部品交換修理を常時行いながら維持されているわけです。一方、廃車時の自動車エンジンを構成している一つ一つの原子は、途中でエンジン交換しない限り、新車の際の原子そのものです。
よって、現在知られている動的秩序システムを見渡した時、たとえマッハ越えのスピードで動けたり、一秒に一兆回の計算ができたりしたとしても、人工システムのダイナミズムは自発的変化能を兼ね備えた生物のダイナミズムには及んでいないと私は考えております。
システムの境界
システムには内外の境界borderが存在します。境界は、物質的なものである場合もありますし、概念的な場合であることもあります。自動車ならばその境界は車体ボディー表面となるでしょう。一方、党派閥のような人間集団システムでは、構成員と非構成員との間の概念的もしくは精神的な区別があればよいのであって、物理的な境界で区別する必要はありません。
物事はなにかしらの境界があって他(外部)と区別しているわけですから、宇宙全体を指すことでもないかぎりシステムには境界はつきものなのです。システムの境界は、何でも出入り自由というような漠としたものではいけません。物理的にせよ、精神的にせよ、システム要素の出入りに制限がかけられるようなバリア機能を持つ必要があります。先に断っておきますが、バリアを外部と相互作用しないための仕組みと誤解しないでください。外部と全く相互作用しないで維持可能な動的システムというのは自然界にはありません。
また、境界があやふやな場合もしばしばあります。地球と地球外の境を地上何メートルと定めることは不可能でしょう(追記も参照)。それでも遠く宇宙からの映像を見ればやはり地球は地球外と分けて考えることのできる一つのシステムです。
以下では、精神的バリアで選別される社会的システムは対象にせず、物質的バリアを持つことで成り立つ動的秩序システムに限って話を進めます。
(追記) 航空分野では、海抜高度100 kmに(カーマン・ライン, Karman lineと呼ばれる)仮想的なラインを引き、地球の大気圏と宇宙との境と定めているそうです。それとても100 kmを80 kmに見直そうという議論があるということなのでやはり地球と地球外との境は「あやふや」なのでしょう。(2019年11月8日)
動的な秩序の維持に必要なエネルギーの流れ
動的な秩序を持つシステムを形成するには、システムの内と外とのエネルギーや物質の出入りが必要です。光なども素粒子レベルの物質とみなせば、エネルギーの流れは物質の流れとして統一して考えてもよいのかもしれません。
先述しましたように、物事は放置すれば無秩序になる方向に自然と動いてしまいます。そこで、システムは外部から流入したエネルギーを使用して内部の秩序を戻す活動を継続しています。そして、その際に必然的にできてしまう質の悪いエネルギー(システム内でもはや使いようのないタイプのエネルギー。例えば、構成要素がいっそう乱雑に運動することでできる熱エネルギー)は廃棄します。このようなエネルギーの流れの中でシステム内の動的秩序は維持できているのです。このことは、熱力学の法則に則った事象ですので、生物に限らず「秩序を維持している」システム全般に当てはまります。
例えば、地球は、太陽からエネルギーを受ける一方で多くのエネルギーを放射熱として宇宙空間に発散しつつあり、このエネルギーの流れの中で水の惑星らしいさまざまな自然の営みを維持しています。生物においては、エネルギー源は主に食物ですので物質としての供給と廃棄は欠かせませんし、生命活動でできてしまう熱の廃棄も必須です。
内と外とのエネルギーや物質の出入りを適切に行っているシステムの境界には必ず備えるべき性質があります。必要なものは取り込み、捨てるべきものは出せるという性質です。無選別に物質を出し入れするようではシステム内部の要素がそもそも維持できず、動的秩序は成り立ちません。
ここまでで私の研究の主たる対象である生体膜や脂質の話への準備としての「生命システムの性質」の話題を終えて、生命の基本単位である細胞に目を移してみましょう。