大規模国際イベント開催時における予防接種
―東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会で医療に従事する医師等を対象とした髄膜炎菌ワクチン接種―
(IASR Vol. 43 p158-159: 2022年7月号)
はじめに
東京2020大会*のような大規模国際イベントでは, 海外から多くの外国人が来日することから輸入感染症の発生リスクが高まる。このため東京都では, 感染伝播や大規模事例の懸念, 高い重症度の項目によりリスク評価を行い, 麻しん, 侵襲性髄膜炎菌感染症(IMD), 中東呼吸器症候群(MERS)などを東京2020大会時に注意すべき感染症として位置付けた1)。
このうち, IMDは, 西~中央アフリカのサハラ砂漠以南などにおいて流行地域が存在しており, 発症後に重篤化し死亡する場合もある疾患として知られている。新型コロナウイルス感染症(COVID-19)流行以降の国外のIMDに関する疫学情報は十分に得られておらず, 事例発生のリスクはCOVID-19流行以前と比較し低くなっている可能性はあるが, 大会関係者*において事例が発生した際のインパクトと対応の負荷は大きい。特に医療に従事する者については, 他の関係者と比較して本疾病患者との接触リスクが高く, 十分な予防策を講じることが必要となる。今回, 髄膜炎菌(Neisseria meningitidis)の感染予防を目的に, 東京2020大会の会場等で医療に従事する医師等へ髄膜炎菌ワクチンの接種を実施したので報告する。
方 法
1. 対象者
髄膜炎菌の感染リスク等を踏まえ, 東京2020大会の選手村, 競技会場内で海外からのアスリート等*の診療に従事する医師, 看護師, 歯科医師, 歯科衛生士(以下, 医療スタッフ)を対象とした。
2. 人 数
対象として想定した医療スタッフは, 最大2,600人であり, 実際に接種を受ける医療スタッフの人数は総数の50%程度として1,300人の接種を見込んだ。
3. 実施方法
上記の対象者に東京2020組織委員会*を通じて個別に接種案内を送付し, 接種を促すために「髄膜炎菌ワクチンに関するチラシ」と一般社団法人日本環境感染学会発行の「医療関係者のためのワクチンガイドライン 追補 髄膜炎菌ワクチン」を同封した。接種を希望する者に対し, 東京都の費用負担により, 4価髄膜炎菌ワクチンを1回接種した。この際, 東京2020組織委員会より接種希望者へあらかじめクーポンを発行し, クーポンと引き換えに接種を受ける体制とした。
髄膜炎菌ワクチンは一般の診療所等ではほとんど取り扱っていないため, 東京感染症対策センター(東京iCDC)のワクチン情報検討タスクフォースメンバーの協力を得て, 接種実績を有する施設を協力医療機関として確保した。協力医療機関は, 都内5カ所〔特別区部の医療機関5カ所(診療所4カ所, 大学病院1カ所)〕の渡航者外来を開設している医療機関とし, 東京2020組織委員会がこれらの協力医療機関と協定を結び, 個別に接種を受けられる体制を整えた。ワクチン接種単価の上限は事務費等込で25,000円程度と想定し, 接種価格は協力医療機関と調整のうえ決定した。ワクチンの確保については, 東京医薬品卸業協会と髄膜炎菌ワクチン製造販売業者にそれぞれ依頼した。
4. スケジュール
東京2020大会に従事する医療スタッフが決定した後, 2021年6月21日に接種案内を送付し, 2021年7月6日~8月25日の期間, 接種を行った。抗体産生には10日程度かかるため, 東京2020大会での活動開始予定日の10日前程度を目途に予防接種を完了するスケジュールとした。
結 果
接種希望者491人にクーポンを発行し, そのうち接種者は308人(62.7%)であった。対象として想定していた医療スタッフ2,600人を分母とすると, 接種割合は11.8%であった。協力医療機関での接種状況は, 診療所4カ所で計233人, 大学病院では75人であった。
考 察
わが国では, 2015年5月から, A, C, Y, Wの血清群に対する4価髄膜炎菌ワクチンが任意接種として接種できるようになり, これによって国内でも血清群によっては髄膜炎菌感染症の予防が可能となった。髄膜炎菌は飛沫感染により人から人へ伝播し, 同居生活や大人数が集まる場所(寮やバーなど)では感染伝播のリスクが高まることが知られている。国内では2011年に宮崎県の高校の寮でB群髄膜炎菌による集団感染事例が発生しており, 学生4人, 職員1人の計5人が発症し, うち1人が死亡した。また, マスギャザリングをきっかけとして流行を起こすことが知られ, 代表的なものとしてはイスラム教のメッカ大巡礼(Hajj)において感染が広がった事例が報告されている。
2015年に国内で開催された世界スカウトジャンボリーでは, 海外で流行している菌株を原因とするIMDのアウトブレイクが発生した。また, 国内で2019年にラグビーワールドカップ2019日本大会が開催された際にも, 観戦のために来日した外国人がIMDを発病し, 国から注意喚起がなされた。このように国際的なマスギャザリングを契機としたIMDの発生を我々は過去に経験しており, 東京2020大会でも十分発生し得る感染症であると考えられた。
幸いにも東京2020大会が行われた2021年7~9月に都内でIMDの届出はなく, 大会終了後, 国内外において本大会に関連する感染事例も確認されなかった。IMDは, 2013年4月から感染症法の5類感染症として届出対象となり, 2021年までに都内では49人が届け出られた。届出数は2013年4月~2019年までは, 年間3-11人で推移していたが, 2020年は2人と過去最低の届出数となり, 2021年の届出はゼロとなった(図)。この届出数の減少は, COVID-19に対する手洗いやマスクの着用, 換気の徹底, などの基本的な感染対策により髄膜炎菌の感染が成立しにくい環境が持続しているためと考えられた。なお, 4価髄膜炎菌ワクチンに含まれないB群が7人(14.3%)と一定の割合で発生しており(図), ワクチンが効かない場合もあり得ることから注意が必要である。
日本感染症学会では, 国内において国際的なマスギャザリングが実施される場合, 事前に受けておきたいワクチンの1つとして髄膜炎菌ワクチンを明示し, 医療関係者として大会関係者の髄膜炎菌感染症患者を診察・介護する可能性が高い人は, 接種を検討すべき対象と位置付けている。ワクチン接種による個人レベルでの予防はもちろん重要であるが, 本大会の医療スタッフは, 都内の医療機関の協力を得て確保されており, 万が一, 髄膜炎菌に感染し勤務先に戻り発症した場合, 勤務先の施設で二次感染を引き起こすリスクがあり, 接種によってこうした事態を事前に避けることができる。
今回の接種割合は11.8%にとどまったが, 接種率向上のためには, 対象者へ繰り返し接種勧奨を行い, 接種期間や接種場所の設定を工夫して利便性を高くすることが重要と考えられた。
東京2020大会での髄膜炎菌ワクチン接種の取り組みは, 東京都と東京2020組織委員会が連携し, 国の支援を得ることなく独自に事業化したものである。国内ではこれまで大規模イベント時に髄膜炎菌ワクチンの無料接種が実施されたことはなく, 今回が初のケースとなる。東京2020大会で実施した接種体制の枠組みは, 大会のレガシーとして今後の大規模イベント開催時に参考となるものと思われる。
おわりに
東京都では, 東京2020大会において, 医療スタッフに対する髄膜炎菌ワクチン接種を無料で実施し, 計308人に接種が行われた。大規模イベント時におけるこのような取り組みは初の試みであり, 接種勧奨, ワクチン確保, 接種協力医療機関の確保など, 接種体制構築に関する実践経験は今後の同様のイベント開催時にも役立つと考えられた。
謝辞:髄膜炎菌ワクチンの接種にご協力いただいた医療機関の皆様, ワクチンの確保にご尽力いただいた関係機関の皆様に深謝いたします。
*各記事中の大会, 組織等の名称は初出時に「*」を付けて略称で示しています。正式名称および用語の定義は本号の<特集関連資料>を参照ください。
参考文献