2013年11月5日
国立感染症研究所
背景
以下のリスクアセスメントは、現時点で得られている情報に基づいており、新たな情報により内容を更新していかなければならない。事態の展開にあわせてリスクアセスメントを更新していく予定である。なお、症例情報は、基本的には世界保健機関(WHO)からの公式情報を使用してまとめた。
事例の概要
2012年9月22日に英国よりWHOに対し、中東へ渡航歴のある重症肺炎患者から後にMiddle East Respiratory Syndrome Coronavirus(MERSコロナウイルス)と命名される新種のコロナウイルス(以下、MERS-CoV)が分離されたとの報告があって以来、中東地域に居住ないし渡航歴・接触歴のある者において、このウイルスによる重症呼吸器疾患の症例が継続的に報告され、限定的なヒト-ヒト感染も確認されている。
疫学的所見
- 2013年11月4日までに、ヒト感染の確定症例150名(死亡64名:致命率43%)がWHOに報告された。中東地域からの報告症例数は139名であり、サウジアラビアの125名が大多数を占め、他にヨルダン、カタール、アラブ首長国連邦、オマーンにて症例が認められた。中東地域以外では欧州(英国、フランス、ドイツ、イタリア)および地中海沿岸部(チュニジア)にて症例が認められたが、すべて中東地域への渡航歴のあるもの、もしくはその接触者であった。
- 一部の症例でヒト-ヒト人感染が疑われている以外は、感染源や感染経路は判明していない。
- 性別は男性が60%(性別の報告された140名中87名)、年齢は2歳から94歳(年齢の報告された137例の情報、中央値54歳)であった。情報が得られた範囲では、症例の54%(81例)が併存症(糖尿病、がん、慢性心肺疾患・腎疾患など)を持っていた。
- 臨床症状に関して、呼吸器症状は軽症から重症なものまで多様であり、急性呼吸促迫症候群(ARDS)を来たす症例もある。下痢を伴うことが多く、腎不全や播種性血管内凝固症候群(DIC)などの合併例も報告されている。
- 2012年3月にヨルダンの医療機関で集団発生事例が発生していたことも明らかになっている(確定症例2名と疑い症例11名、うち10名は医療従事者)。
※ 学術論文から得られた疫学情報
- 2013年4月1日から5月23日の間に、サウジアラビアのAl-Ahsaにおいて23例の確定例(それ以外に11例の可能性例も存在)の報告があったが、これは4つの医療施設が関与したアウトブレイクであった。確定例23例のうち21例が、透析室、集中治療室、入院病棟においておこり、その中にはヒト—ヒト感染が確認された例もあったが、その感染様式は特定することができなかった。潜伏期間は中央値5.2日(95%信頼区間:1.9-14.7日)、世代間隔(感染源の発症から二次感染者の発症までの期間)は、中央値7.6日(95%信頼区間:2.5-23.1日)と推定されている[1]。
- イギリスにおいて2013年2月に発生した二次感染者2名の家族集積例における潜伏期間は1-9日と推定されている[2]。
- サウジアラビアで2012年10-11月に発生した家族内集積事例の報告では、同居家族のうち男性のみに感染伝播が起こり(確定例2名、可能性例1名)、入院前のみに濃厚接触があったこれらの症例の配偶者は感染していないことから、病初期においては感染性が低い可能性が推察されている[3]。
- フランスではドバイから帰国して発症した1例とこの患者から院内感染した1例の計2例が報告された。本事例では、ウイルス検出のためには下気道からの検体が必要であることが指摘され、また潜伏期間は9-12日と推定されている[4]。
- 6月21日までの64症例から計算された基本再生産数(R0)は、低めの推計値(集団発生内に複数の初感染例を仮定)で0.60 (95% CI 0.42–0.80)、高めの推計値(集団発生ごとに一つの初感染例を仮定)で0.69 (0.50–0.92)といずれも1.00を下回った。2003年のSARSのR0が0.80 (0.54–1.13)であり、MERSのR0はこれより低く、パンデミックは起こしがたいと推察されている[5]。
9月25日までの133例の症例情報によると、感染経路の情報のある129例のうち33例(26%)は院内感染の可能性があり、医療従事者の感染は全体で23例(17%)であった。2013年3~5月と6~9月の期間における致命率はそれぞれ63%(25/40)、33%(25/77)と低下傾向にある。また、18例(14%)の無症候あるいは軽症例が報告されている[6]。
※ 学術論文から得られたウイルス学的情報
感染源となる可能性がある動物に関する検討
- サウジアラビアにおけるコウモリの調査で、コウモリからのMERS-CoV検出率は低かったが、一個体のコウモリから検出されたウイルスの塩基配列が、サウジアラビアの初発例由来のウイルス遺伝子と100%相同であった[7]。
- オマーンのヒトコブラクダにおいてはMERS-CoVのスパイクに対するタンパク特異的抗体、MERS-CoVに対する中和抗体価はいずれも100%(50/50)陽性であった[8]。この結果から、ラクダにMERS-CoVあるいは類縁のウイルスが感染していると考えられる。
ヒトからの分離ウイルスについての検討
- 21例のヒトMERS症例についてのフルゲノム解析の結果, Ryadhにおいては、3つの明確に区分されるゲノムタイプが存在しており、持続的なヒトーヒト感染が起こっている状況ではないと考えられる。また、Al-Ahsaのクラスターにおける解析の結果、病院におけるアウトブイレクは、2つ以上のウイルスが入ってきていることがわかった[9]。
- MERS-CoVの細胞表面のレセプターは、dipeptidyl peptidase 4(DPP4, CD 26)であり、哺乳類におけるこのレセプターの分布は、肺と腎に病原性があるというこのウイルス感染症の特徴に合致したものであった [10]。
WHOによる対応
- 症例定義の発出(7月3日改訂)。
http://www.who.int/csr/disease/coronavirus_infections/case_definition/en/index.html - サーベイランスガイダンスの発出(6月27日改訂)。
http://www.who.int/csr/disease/coronavirus_infections/InterimRevisedSurveillanceRecommendations_nCoVinfection_27Jun13.pdf
6月27日に発出された改訂されたサーベイランスガイダンスでは、診断のためには、下気道からの検体採取が勧められること、また潜伏期については多くの事例は1週間未満であると考えられるが、潜伏期が9-12日という事例があるため、確定例の接触者や中東への渡航歴があるものについては、14日間の健康観察が勧められている。 - 症例調査ガイダンスの発出。
http://www.who.int/csr/disease/coronavirus_infections/MERS_CoV_investigation_guideline_Jul13.pdf - バイオリスクマネジメントのガイダンスの発出。
http://www.who.int/csr/disease/coronavirus_infections/Biosafety_InterimRecommendations_NovelCoronavirus_19Feb13.pdf - 医療機関における、感染予防・コントロールのガイダンスの発出。
http://www.who.int/csr/disease/coronavirus_infections/IPCnCoVguidance_06May13.pdf - 治療に関するガイダンスの発出。
http://www.who.int/csr/disease/coronavirus_infections/InterimGuidance_ClinicalManagement_NovelCoronavirus_11Feb13u.pdf - 症例対象研究に関するプロトコールの作成と共有(7月3日改訂)。
http://www.who.int/csr/disease/coronavirus_infections/MERSCoVCaseControlStudyPotentialRiskFactors_03Jul13.pdf - 国際重症急性呼吸器・新興感染症協会(International Severe Acute Respiratory and Emerging Infection Consortium)とともに、病因・薬理学的研究のための研究プロトコール・症例報告様式の作成と共有。
http://www.prognosis.org/isaric/ - 国際保健規則(IHR)に基づく対応:緊急委員会の開催(第一回7月9日、第二回7月17日、第三回9月25日)
現時点では「国際的に懸念される公衆の保健上の緊急事態(PHEIC)」には至っていないが、継続した監視、感染防止策、渡航に関する勧告、リスクコミュニケーション、研究、IHRに基づく通告の徹底が重要であると確認。 - サウジアラビアへの巡礼者向けの暫定的な渡航時の助言(7月25日発出)
WHOは入国時の特別なスクリーニングおよび渡航や貿易を制限することを推奨しない。各国に対し、巡礼者のみならず、輸送業者、地上職員など巡礼者の渡航に関連する人でのMERS感染のリスクを軽減するために、渡航時の助言や渡航者の自己申告に関する認識を向上するよう奨励する。
http://www.who.int/ith/updates/20130725/en/index.html - 症例の家庭でのケアと接触者の管理についてのアドバイス(8月8日発出)
http://www.who.int/csr/disease/coronavirus_infections/MERS_home_care.pdf - 実験室診断に関する暫定的な提言(9月発出)
http://www.who.int/csr/disease/coronavirus_infections/MERS_Lab_recos_16_Sept_2013.pdf
国内対応
- 感染研ウイルス第三部より検査試薬(PCR用プライマー・プローブ、陽性対照等)が各地方衛生研究所および政令指定都市の保健所、さらに成田・関西の両国際空港の検疫所、計74箇所に配布された。
- 2012年9月26日付で、MERSが疑われる事例について厚生労働省への情報提供をするようにとの通知が出されている。その後2012年11月30日付で症例定義が、発症前10日以内にアラビア半島またはその周辺国に渡航または居住していた者と変更されている。2013年5月24日には、MERS-CoVによる感染症疑い患者が発生した場合の標準的対応フローが厚生労働省から自治体等に向けて発出された。
- 感染研はWHO等からの情報の翻訳をし、ウェブサイトを通じて情報提供している。
リスクアセスメントと今後の対応
- 現時点で、医療機関内や家族間などにおいて、限定的なウイルス伝播が確認されている。医療従事者における感染事例が確認されているが、感染様式については明らかになっていない。
- 感染が市中へ急速に拡大しているという疫学的所見はなく、ヒト-ヒト感染は限定的と考えられている。また、ヒトから分離されたウイルスのゲノム解析の所見もこれを示唆する所見である。
- 一部のクラスターはあるものの、中東の比較的広い地域において散発的に患者が発生しており、その感染源は依然として不明である。コロナウイルスの特性から、自然宿主とは別にヒトに感染を起こしている中間宿主が存在する可能性が指摘されている。ヒトから検出されているMERS-CoVはコウモリと共通の祖先を持つウイルスである可能性も示唆されているが、確定的な所見はない。ラクダにおける抗体陽性の所見も、直接的なMERS-CoVの感染を証明するものではない。
- 報告された症例の約半数が死亡の転帰をとっているが、新たな感染症が出現した際には最も重症な症例から発見される傾向にあり、不顕性感染者や軽症例がつかめていない可能性がある。症例との接触歴から探知された症例の解析をすることにより、MERSの真の病態像や重症度に近づいてくる可能性もあるが、現時点では、依然限定的な情報が得られているのみである。
- 昨年9月に本疾患が初めて報告されて以来、世界各国においてサーベイランスが強化されてきたところであるが、現時点では、中東外ではヨーロッパとチュニジアにおいて帰国者(輸入例)とその接触者感染が少数確認されているのみである。
- 日本においても、今後、中東からの輸入例が探知される可能性はありうると考え、関係機関は海外での発生状況などの情報に注意し、国内において輸入例が発見された際には院内感染対策等に細心の注意を払う必要がある。
参考文献
- Assiri A, McGeer A, Perl TM et al; the KSA MERS-CoV Investigation Team. Hospital Outbreak of Middle East Respiratory Syndrome Coronavirus. N Engl J Med. 2013 Jun 19. [Epub ahead of print]
- Health Protection Agency (HPA) UK Novel Coronavirus Investigation team; Evidence of person-to-person transmission within a family cluster of novel coronavirus infections, United Kingdom, February 2013. Euro Surveill. 2013 Mar 14;18(11):20427.
- Memish ZA, Zumla AI, Al-Hakeem RF et al; Family cluster of Middle East respiratory syndrome coronavirus infections. N Engl J Med. 2013 Jun 27;368 (26):2487-94.
- Guery B, Poissy J, El Mansouf L et al; the MERS-CoV study group. Clinical features and viral diagnosis of two cases of infection with Middle East Respiratory Syndrome coronavirus: a report of nosocomial transmission. Lancet. 2013 Jun 29;381 (9885):2265-72
- Breban R, Riou J, Fontanet A; Interhuman transmissibility of Middle East respiratory syndrome coronavirus: estimation of pandemic risk. Lancet. 2013 Aug 24; 382 (9893): 694 – 9
- Penttinen PM, Kaasik-Aaslav K, Friaux A, Donachie A, Sudre B, Amato-Gauci AJ, Memish ZA, Coulombier D. Taking stock of the first 133 MERS coronavirus cases globally – Is the epidemic changing? . Euro Surveill. 2013;18(39):pii=20596.
- Memish ZA, Mishra N, Olival KJ et al; Middle East Respiratory Syndrome Coronavirus in Bats, Saudi Arabia. Emerg Infect Dis. DOI: 10.3201/eid1911.131172
- Reusken CBEM, Haagmans BL, Muller MA et al; Middle East respiratory syndrome coronavirus neutralizing serum antibodies in dromedary camels: a comparative serological study. Lancet 2013 Oct;13(10):859-66.
- Cotton M, Watson SJ, Kellam P et al; Transmission and evolution of the Middle East respiratory syndrome coronavirus in Saudi Arabia: a descriptive genomic study. Lancet 2013 Sep 19. doi:pii: S0140-6736(13)61887-5.
- Raj VS, Mou H, Smits SL et al; Depeptidyl peptidase 4 is a functional receptor for the emerging human coronavirus- EMC. Nature. 2013 March 14 495: 251-4