(IASR Vol. 36 p. 231-232: 2015年12月号)
中東呼吸器症候群(MERS: Middle east respiratory syndrome)は、2012年にサウジアラビアで初めて確認されたMERSコロナウイルス(MERS-CoV)による急性呼吸器感染症である。MERS-CoVは2003年に中国で発生した重症急性呼吸器症候群コロナウイルス(SARS-CoV)と同じ、コロナウイルス科ベータウイルス属に属する(本号6ページ)。
MERS-CoVのヒトへの主な感染経路は飛沫感染や接触感染で、潜伏期間は2~14日間(中央値5日)である。臨床症状は、軽症の上気道症状から肺炎などの下気道症状、下痢などの消化器症状、多臓器不全まで様々であり、無症候感染も認められる。重症例では発症から1週間前後に肺炎が増悪し、急性呼吸促迫症候群(ARDS)を併発し、急性呼吸不全や多臓器不全に陥る。報告された感染者における致命率は20~40%と高い。現在のところ、MERS-CoVに対する治療薬やワクチンは開発段階であり、MERSの対症療法についても確立されたものはない。
厚生労働省(厚労省)では、2012(平成24)年9月より、新種のコロナウイルス感染症として、都道府県等の衛生主管部局長に対して疑いのある患者の情報提供を求めてきた。2014(平成26)年4月以降、中東諸国における感染者の急増と世界各地における輸入例の報告状況から、日本においても患者が発生する可能性が高まったことから、2014(平成26)年7月、MERSを「感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律(感染症法)」における指定感染症および検疫法における検疫感染症として定めた。以後、国内で患者が発生した場合に備え、検疫体制や当該患者に対して適切な医療を提供する体制を整備してきている。なお、2014(平成26)年11月に感染症法が改正されたことにより、2015(平成27)年1月21日にMERSは指定感染症から二類感染症へ位置づけられた(本号12ページ)(届出基準はhttp://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/kekkaku-kansenshou11/01-12-02.html参照)。
MERS-CoV保有動物
2013年11月にサウジアラビアにおいてMERS-CoVに感染したヒトコブラクダとの濃厚な接触後に発生した1死亡例が報告され、ラクダからヒトへの感染が確認された。また、サウジアラビアにおける血清疫学調査からはラクダに曝露された人達の抗体陽性率が高かったことなどから、ヒトコブラクダがMERS-CoVの保有動物であり、ヒトへの感染源として最も有力視されるようになった。中東諸国では、ヒトコブラクダは食用肉としてだけでなく、観光資源、娯楽資源としても住民生活に密着した動物である(本号4ページ)。
日本国内で飼育されているヒトコブラクダについてもMERS-CoV遺伝子もしくは抗体保有状況について調査が実施されたが、MERS-CoVに感染している個体は確認されなかった(本号8ページ)。
MERSの発生状況
世界保健機関(WHO)へ報告されたMERSの検査診断による確定例は、2012年から2015年11月13日までに、26か国より、1,618例(うち死亡579例、致命率36%)となっており(図)、このうちの7割を超える確定例はサウジアラビアから報告されている(表)。ほとんどの報告患者ではラクダへの曝露歴が不明である。また、複数の院内アウトブレイク事例において、ヒト-ヒト感染が報告されている(本号3ページ)。
中東諸国以外の国で最大の報告数となった韓国での確定患者は、主に院内感染として発生しており、中東諸国への渡航歴のある1人の男性を発端に2015年5月~7月の間に16の医療機関で計186例の症例が報告された(韓国で感染し中国で診断された1例を含む)。それらの年齢中央値は55歳(範囲:16~87歳)、死亡37例(致命率20%)であり、死亡例のうち33例(89%)は高齢者、もしくは基礎疾患(悪性腫瘍、心疾患、呼吸器疾患、腎疾患、糖尿病、免疫不全等)を有していた。医療従事者の感染者は39例(21%;うち死亡例はなし)であった(本号5ページ)。
ヒトからヒトへの感染伝播
MERSの非流行国での輸入例を発端としたヒト-ヒトの感染伝播について、これまでにWHOに報告された36事例をもとに数理モデルを用いた推定が行われている。その結果、MERS-CoVのヒトからヒトへの感染伝播の可能性は必ずしも高くなく、多くの輸入例は二次感染を引き起こしていない。一方では、輸入例1例を発端に計186例の症例を認めた韓国の事例と同程度の規模で患者が発生するリスクも常にあると指摘している(本号14ページ)。
MERS-CoVの検査診断(本号9ページ)
リアルタイムRT-PCRによるウイルス遺伝子検出を行う。上気道からの検体はウイルス量が少ないことがあり、ウイルス検査には下気道からの検体(喀痰、気管吸引物、気管支肺胞洗浄液など)が強く推奨されている。WHOの症例定義により、確定検査には少なくとも2つの異なるウイルス遺伝子ターゲットが陽性となることが必要とされる。わが国においては、地方衛生研究所(地衛研)や国立感染症研究所(感染研)に検体を搬送し、検査を行う。そのための検査試薬(upEプライマー・プローブ、陽性対照等)が感染研から全国の地方衛生研究所および検疫所に配布され、検査体制が整っている。また、感染研では、MERS-CoVのN領域を30分で検出できるRT-LAMP法も開発した。
予防と治療
MERS-CoVを保有しているヒトコブラクダが生息しヒトへの感染が確認されている国や地域においては、ヒトコブラクダへの接触を控えるようにする。厚労省のホームページでは、現在MERSが発生している国・地域、届出基準、国内発生時の対応等についての情報が入手可能である(http://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/kenkou/kekkaku-kansenshou19/mers.html)。感染研では入手可能な疫学的およびウイルス学的情報に基づき、国内でMERSが発生するリスクを評価し、必要な対策への提言を行っている。これらは海外の事態の展開にあわせて更新されており、随時ホームページ上で公開している(http://www.niid.go.jp/niid/ja/diseases/alphabet/mers.html)。
治療に関しては、わが国におけるMERS対策のための知見を集積し、その成果を日本国内で広く共有することなどを目的に、2015年度より「MERS等の新興再興呼吸器感染症への臨床対応法開発のための研究」が開始された(本号11ページ)。
韓国の事例は、平時からの感染症対策の徹底、発熱患者に対する渡航歴聴取、迅速な接触者調査、リスクコミュニケーションの重要性をあらためて示した。わが国でもこれらのことが実施されているか、実施可能な環境が整備されているかを検証することが重要である。